shivering in blue

旧チキンのロンドン留学記

陽キャと陰キャと人種と文化。⑴

恥ずかしがらずに言おう。

渡英してから、とても寂しい。

あまりにずっと寂しいので、1ヶ月もの間、なぜ寂しいのか考え続けた。

以下はその思考録です。何本かに分けることになると思いますが、ご容赦ください。

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渡英4日目にこんなことをノートにひたすら書き綴るぐらいには寂しい。

 

出身地域で固まる傾向

当然だと言われそうだが、人々には出身地域で固まる傾向があるように思う。

これは、国際交流団体で活動していた時代にも思っていたことだ。

南米系は南米系。東欧系は東欧系。興味深いのは、パキスタン人とチュニジア人が、とても仲が良いとは言わずとも、イスラム文化圏出身同士としてつるんでいるように見えることだ。

 

寮の大食堂(私はご飯が出る寮でイージーライフを送ってる)でご飯を食べるたびに、そのことを思い出す。

とても小さいグループにフォーカスすれば、インド系で固まってる、ずっとシンガポールから来た人と一緒にいる、などいろいろな様態があるが、誤解を恐れず言えば、「欧米系」vs「アジア系」という分断が顕著だと感じる。

食事を受け取り、席を選ぶとき。誰も友達がいないと、自然と皆自分のカテゴリに当てはまる人が多いテーブルに向かう。

例えば、私が欧米系グループの端っこに座るとしよう。そうすると、不思議と(?)初対面のアジア人が横に座ってくる。さて、そうして私の周囲にアジア系が3人ぐらいやってきた段階で、私の向かいの空席に欧米系の人が来たとしよう。すると彼女は、彼女の横の欧米人にここに座っていいか聞き、自己紹介し、欧米系グループの会話に参加する。私は空気か!?!?(実例です。)

 

これは極端な例かもしれないけれども、寮の仲良しグループや誰も知り合いがいない中での席の選好に、エスニシティが絡んでいないとは思えない。

 

理由がわかりやすいのは、フランス語話者が固まってフランス語を話している、中国語話者が固まって中国語を話している、などの、そりゃ母国語が話せたら落ち着くよね、というタイプのグループ。

でも、大概の場合、欧米系グループも、アジア系グループも、食堂で大人数で会話しているときは英語なのだ。

私はそれが悔しい。寂しい。

 

「黄色いバナナ」と「名誉白人」

なぜそれが悔しくて寂しいのか?

具体的に言えば、なぜアジア人(しかも日本に縁のある人)にばかり話しかけられて、欧米人グループに入れないことを気にしているのか?

そして、なんとなく欧米人グループには凸れないのか?

こんなタイミングで私をさらに惨めな気持ちにするものをツイッターで見かけた。

 

日米安保の生みの親と言われる、第52代アメリカ国務長官ジョン・フォスター・ダグレスの指摘だ。

 

(甘い気持ちでブログをしているので原典には当たってないが)簡単にいうと、日本人は欧米人には劣等感を抱いているものの、アジア人の中では日本人が至高だという優越感がある、それが日本人のレイシズムだ、というもの。

 

わざわざ実例を出さずとも、思い当たる節はみんなあるのではないだろうか。

なんなら、日本にいるときに私はそれを何となく感じ取り、日本(の文化、技術、「国民性」等々)を賛美する内容のバラエティー番組の分析を通じて日本人のレイシズムを糾弾し、卒論にしてやろうか、とも思っていた。

 

だけれども、イギリスの、ほとんどイギリス人がいないような真に多国籍の寮へやって来て、私は自分の内なるレイシズムに剥き出しで晒されることになった

 

しかし傾向が全てではないので。

というのが社会学の大好きなテーマでしょう。

傾向はすぐにスティグマにも結びつくしね。

 

よくよく見てみると、香港出身でずっと欧米系グループに入り浸ってる人、欧米系グループともアジア系グループとも仲の良い社交的な人、そもそも出自的にアジア人と欧米人のハーフで世界を転々としていましたな人など、傾向に漏れる人はいくらでもいる。

 

さらに観察を続ける。

欧米系はパーティーピーポー、アジア系は真面目、という傾向があるのだが、

見た目はまじまじな欧米人でもなんだかガリ勉瓶底眼鏡を想像させる人はいるし、

そういう人は欧米ガリ勉の友達を作ってるという傾向がある。

 

この辺りで気がついた。

この寂しさ、身に覚えがある。(次の記事へ)