shivering in blue

旧チキンのロンドン留学記

陽キャと陰キャと人種と文化。⑶(完)

陽キャと陰キャと人種と文化。⑵ の続きです。

 

そもそも、陽キャ/陰キャとはなんだろうか。

授業でちらっと、フランスの社会学者ブルデューが唱えた概念である「ハビトゥス」について学んだことがある。原典は読んでいないし、正確な理解は及んでいないのだが、おおまかにいうと、個人が社会構造や秩序の中で生きていくうちに、その秩序や社会構造に適合的な行為を無意識に行うようになる、つまり社会構造が身体化され、行為を産出するという考え方のはずだ。もっとも端的な例が、階級によって喫煙率や発話のアクセントが異なることだろう。

 

なんとなく、陽キャ/陰キャに「ハビトゥス」チックなものを感じないか?

なぜ、ある人が陽キャである人が陰キャなのかについて説明できないのが歯がゆいが(遺伝?環境?)、陽キャには陽キャの、陰キャには陰キャの、それぞれ内部で共有された行動様式があるように、私には見える。

グループ所属者の誕生日をどう祝うか、どのような漫画やアニメの知識を持っているべきか、スカート丈はどれくらいがいいか。

そのような好みが似通った人がグループを結成するという方向性が強いが、とあるグループへの所属意識を抱くことで無意識にグループに適した行動様式が身につく、という方向性も存在するだろう。

ハビトゥスの正確な理解がないままハビトゥスを連発するのはどうかと思うので、

ここではそのような、とあるグループに共有された行動様式や価値基準の塊を「文化」と呼んでおこう。

 

「文化」が近いと心地いい

さあ、ここからは絶対深い深い深い厚い厚い厚い先行研究がある分野できっと60年以上前から言われて批判されていることをガバガバな先入観でお届けするよ⭐︎

 

人間、「文化」が近いと心地いいものだ。話題があうし、価値観があう。

というか、そもそも「文化」が近い人にしか人生なかなか出会わない。

 

中学校→高校→大学と、学力試験をくぐるたび、人はより「文化」の近い人の集団に属していく。就活は自分の「文化」と相性のいい企業探しでもある。同類婚とは「文化」が近い人同士の結婚だ。日本のスタバに行けばコーヒーはマックブックを叩きながら飲むものであり、缶に入っているのを駐車場で一気飲みするものではない、という「文化」を持つ者たちを観察できる。

 

例えば、私が持っている一番大きな文化のうちの1つは「人権と法治主義を信じる文化圏」で、一番小さな文化のうち1つは「猫より犬派文化圏」だろう。間には、「首都圏在住」「大学進学者」「留学経験者」「女性」など、社会学が注目する規模感、シリアス感の文化がたくさん、積み重なってる。複層的な「文化」が「アイデンティティ」を構成しているとも言えるかもしれない。

 

見える差異と「文化」

さて、見える差異には「文化」が付きまといやすい。

もっともわかりやすいのがジェンダーではないだろうか?

人間には色々な個体があるけど、成熟後のパワーとか身長と、子供を産む能力とでざっくり2つに分けられそうだ。間の繊細な議論を全部かっ飛ばすと、その片方に「女性」片方に「男性」という文化が割り振られているといえよう。

 

ジェンダーの面白いところは、そもそも遺伝子的に男女で見ためが違うことに加えて、(ここでは一旦、身体に男女の区別があるということにしよう。男女どちらにも区別されない身体も存在する。)、「文化」のために、髪型や服飾の点で見ための差が出ることだろう。例えば、陰キャと陽キャを丸裸にしたところで(メガネも外すよ!)、日焼けやジム通いなど「文化」に基づく見ための差異はあるものの、男女ほどの違いはないはずだ。

 

なので、人に「陽キャ」として見られることをやめるのは「男性」として見られることをやめるより、幾分か簡単だ。

 

エスニシティは、「見える」差異だ。

肌の色、髪質、目の色。これは否定できない。

 

エスニシティは「文化」と結びつきやすい。とあるエスニシティはとある地域に偏在する。近接する地域は相互の文化に影響し合うので、とあるエスニシティはとある「文化」を持ちやすい。東アジアに分類される地域で幼少期を過ごした人がモンゴロイドである可能性かつ東アジア的な文化(ex: 幼少期にピアノを習わされる)を身につけてる可能性は高いので、モンゴロイド=幼少期にピアノを習わされた的な結びつけが発生しやすい。

 

そして、アジア文化の持ち主だろうと思われることをやめるのは、難しい。

 

しかし、例えばABC(American Born Chinese), BBC(British Born Chinese)と言われる人たちのように、親のもつ「文化」と自分の周囲の持つ「文化」が違う環境で育った人もたくさんいるので、「見える差異」が「その身体的特徴を持つ人が持っていそうな文化」に直結しない。(ただ、話がそう単純でないことも付記すべきだろう。ABCだと、肌の色や髪質はモンゴロイドでも、「文化」に基づく見える差=アメリカ文化らしい服飾やアクセントが身につくので、「ABCである」ことが見える化されるとも言える。)

 

傾向と価値づけ

話が長くまとまらなくなってきた。そもそも何が言いたかったんだっけ。

ざっくりまとめると、コーカソイドとモンゴロイドでは見ために差異があり、その差異から判断してどうやら文化が違うと推測される。そして、その推測のもと、私たちは自分と「文化」が近くて心地よさそうなグループの近くにトレーを運んで、食事をしている。

なんでこんな単純なことを言うのに4000字も使ってるんだ自分は。

 

じゃあ、私のどこがレイシストなのか?

1つめに、見ためを絶対視し、傾向でしかないものがその見ための人全員に当てはまると思っていたこと。

2つめに、アジア系の文化が劣るものだと思っていたことだ。

 

傾向の絶対視と価値づけが行われた時に、それは差別となるだろう。

 

30代の独身女性は当然結婚したいと思っているだろうと決めつけてはいけないし、

陰キャも陽キャもそのいずれでもないひともみんな同様に価値を持っているのだ。

 

結論。

ここまで考えた時、なんだかとても楽になった。

これまでの人生、自分に近い人と選択的に付き合ってきたし、その極みだった日本での大学生活はとても居心地がよかった。

でも寂しさは変わらない。

小さいころから、気の合う人と仲良くすればいいのよ、と言われてきた。恋人や親友といわれる存在については、心からそう思う。

けれども、自分の知り合いというコホートが自分に近い「文化」で独占されているとなんだか寂しい気がする。「文化」が違う人とは、やっぱり仲良くできないのかな?「陽キャ」とも「陰キャ」とも仲良くしたいなぁ。

 

色々考えたけれども、自分と近い人としか交われないという点で、

「アジア系」とばかり仲良くなるのは寂しい気がする。

という振り出しに戻ってしまった。

分断線をまたぎたいという欲望との付き合いも長くなってきたので、またこいつかよという気持ちです。ただ、渡英当初の「人種」にガチガチに囚われた肩の力は抜けてきて、いつもの自分なんだな、と思えるようになりました。

そう思うと、寂しさが強迫的ではなくなります。

 

まあ!!!

みんなお金持ちの高学歴だから!!!

同じ「文化」持ってんだけどね!(完)

 

追記:アジア系と欧米系ってざっくりすぎひん?てかヒスパニックとか黒人は?と思って当然だと思うのですが、「東アジア人はマジョリティかマイノリティか?」についていつか書きたくて、その中でいつか触れられたらと思っています。いつか。