shivering in blue

旧チキンのロンドン留学記

一学期の振り返り(2)

授業① 宗教と科学

近代を作り上げた様々なうねりの中に、世俗化があると言われがちだ。世俗化とは宗教(キリスト教)の力が弱まるというのが第一義だが、むしろ人々が信じるものが多様化したというべきかもしれない。そもそも、キリスト教がカトリックとプロテスタントに分化した。そして、国民国家とか人権とか科学とか貨幣といった、別の信念体系がモコモコ出てきたと、世界史未履修勢としてふんわり理解している。UCLでの最初の学期で大好きだった授業は、科学と宗教という強固な信念体系同士の関係性を紐解くものだった。

 

近代を象徴する科学は、一見宗教(ここでの宗教は一神教のことで、仏教や道教はまた別の話)とは全く対照的で、競合的な関係にあるように見える。ガリレオの可愛そうな運命然り。しかし、実は科学と宗教は類似度が高い。私は分子をこの目で見たことがないけれども、自分の身体が分子でできていると思っている。本で読んで大人から習ったからだ。キリスト教徒(の大多数)はその目で神を見たことがないけれども、神がいると思っている。本で読んで大人から習ったからだ。そればかりでなく、科学とはそもそも神が作った「自然」という書物を読み込み、神の栄光をよりよく理解するために神学から発展した節がある。ニュートンは敬虔なキリスト教徒だった。マートンはプロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神と深く関係しているように、プロテスタンティズムの、勤勉で職業重視な倫理が、近代のシステマティックで専門職化した科学と深く関係していると主張した。ガリレオは科学と宗教の対立ゆえ迫害されたというよりも、政治のセンスがなさすぎて、バチカンの怒りをかってしまった説が濃厚だ。

 

ダーウィンの進化論という圧倒的大炎上案件が登場した頃から科学と宗教は対立しているという説が取り沙汰されるようになったのだが、ビッグバンセオリーが登場した時には、それや!誰かが指をパチンと鳴らして宇宙が誕生したんや!神や!ってなった。複雑で面白いディテールを書く気力も能力もないので、私の説明で授業の魅力が8割減していると思う。ここまでの説明を読んで面白そう、と思った方は、その面白そうレベルを5倍ぐらいにしていただけると、私がどれくらいこの講義が好きだったか味わえる。

 

宗教と科学の授業は、人間がどのように物事を知り、何を真実と認め、それをもとにどのように生きるか決めるための強力なシステム同士が、競合したり協力したり、密接したり疎遠になったり、複雑な関係を取り結んでいる様相を見せてくれたので、最高に興奮した。そして科学にしろ宗教にしろ、特に西洋では、「正しい」という絶対領域があるということを実感した。最後の講義で、神を信じていなさげな言葉をある手紙で残しているアインシュタインの格言を扱った。

Science without religion is lame. Religion without science is blind.

 

この格言の前半を、多くの学生が、宗教がなければ科学は意味を、あるいは倫理を失うと理解していた。確か日本への原爆投下を例に挙げていた学生もいたはずだ。2回の世界大戦での科学の使われ方は、宗教が弱体化した結果なのだろうか?

 

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本文とは特に関係ありませんが、ウィーン国立図書館の写真です。

授業② 「文学と検閲」

さて、先学期にはもう1つ推しまくりの授業があったのだが、それも信念の対決という構図を含む授業である。文学と検閲、という授業だ。「言論・表現の自由」対「公共の福祉」、あるいは「アートという営み」対「社会規範を守る必要」。大きな違いは、近代科学が聖書の文言と矛盾することを言い始めたところから問題が立ち上げられる「宗教と科学」に対し、「文学と検閲」は、少なくとも言論の自由をめぐる議論についてはギリシャ時代まで遡ることができることである。じゃあ何が近代かというと、小説が自由民主主義国家の法廷で裁かれるようになったのは、1859年の『ボバリー夫人』裁判以来なのだ。(そもそも法廷で小説を裁くのが検閲かどうかは要議論である。)

 

この授業は、裁判になるほどエロい小説『チャタレー夫人の恋人』を読みたいという不純な動機で履修したのだが、

(中2のとき最寄駅の小さな書店でそうとは知らず手にとって衝撃を受けた官能小説『同級生』は裁判になってないので、やっっっっっばいエロいに違いない!!!)

授業で扱った中で自分が完読した4冊(『ボバリー夫人』、『日陰者ジュード』、『ドリアングレイの肖像』、『チャタレー夫人の恋人』)はどれも最高に近代という感じで、下手なAVの100倍は興奮した。

(いずれそれぞれの興奮ポイントをブログに書きたい。)

(ちなみに『チャタレー夫人の恋人』は官能小説あるあるの、笑える比喩がまあまあある。)

 

ジェンダー間の力関係、生の意味消失、宗教や慈善への懐疑、科学やジャーナリズムへの傾倒。近代!近代!というのが読んでいるときにつけていたメモのそこかしこにある。授業で扱った問い自体は「検閲とは何か」「文学は政治的言論と違うのか」「小説家は読者に与える影響について責任を持つのか」など、うわーーーー脳みそに今世紀までの主要な哲学テキスト注入してくれ!!!!!!という気持ちにさせるものばかりで最高だったのだが、

近代フェチとしてはそれぞれの小説の近代みと、それぞれの小説への批判の近代みにも魅せられた。『ボバリー夫人』は最初の近代小説とも言われるのだが、novel(小説)の名にふさわしいnovelさ(新しさ)があったからじゃないだろうか。

 

既存の社会規範(e.g. 結婚は崇高)への疑念が呈されるとき、なぜ人はここまで揺り動かされるのだろう。なぜ誰も思いつかなかった既存の社会規範への疑念を、小説の形に昇華できる人がいるのだろう。人間がそういうことをする限り、人文学という知の営みは消えないと思う。(文学部廃止論毛嫌い論者)

近代という時代の成立を社会学が追う中で、ある朝起きたら近代になっていたのではなく、規範の逸脱と規範の強化、あるいは新たな規範の導入という闘争が近代を作ったというのは、資産だなと思わされた。

 

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本文とは特に関係ありませんが、キリスト教の教会の様式を取り入れた、ブダペストの大シナゴーグの写真です。

この「文学と検閲」がマジで推せたのは、教授がマジで推せるからでもある。

ケンブリッジの英文学を主席で卒業した後、(成績が出る前、自分に英文学は向いていないと在学中に真剣に悩んで持ってた文学の本を売り払うなどし、キャリア相談室の勧めに応じて)弁護士になり、30歳で弁護士業の傍ら文学の博士号をUCLでとってダイアナ元妃の離婚を調停し、本を書いたり法律事務所の代表をしたり3回結婚したりしている。

そんなスーパーさはウィキペディアで知ったのみで、当の本人は一言も、本当に一言も、そういう話はしない。ただ、美しい英語と美しい論理構成で、滔々と深い問いを提示してくるのである。教養ってこういうことか、と目を見開かされた。

 

授業の中で少しずつ、先生がユダヤ教徒ということが匂わされていったのだが、その後ぐぐりまくって、先生の弁護士としての実績にホロコースト修正主義的な他の歴史家を非難した歴史家の弁護、文学研究者としての実績にT.S.エリオットの反ユダヤ主義的な要素の指摘があることを知った(そして先生はユダヤ人らしい)。

 

「検閲」について考えることは、現代社会を考える上で欠かせない。

イスラム教徒を貶める、性的マイノリティの名誉を毀損するといった理由で芸術や発言は、世に出される後も前も検証されるし、制限される。

”Political Correctness gone crazy” な社会は言論や表現の自由がない社会なのか?それとも何人も尊重され等しく安全を保障される社会なのか?どちらも「人権」と言えそうなのに、両方を守ることはできないのだろうか。

 

モニュメントという芸術/言論は、小説と比べて公共性があまりにも高い。

インド独立の父ガンジーはアフリカ人差別的な発言を繰り返していたという市民の抗議に応じて、ガーナでガンジーの像が撤去されたというニュースが、「文学と検閲」の最後の授業で先生が例示した、この授業と現代とをつなぐ手がかりだった。

私がブダペストで通りかかったのは、モニュメントに対してモニュメントを以って抗議するという言論空間だった。

 

現代の検閲を遂行するのは、政府ではなく、市民だ。

「市民」は一枚岩のアクターではない。

モニュメントの解釈は自由になされるのだろうか。誰の解釈が優先されるのだろうか。

 

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