shivering in blue

旧チキンのロンドン留学記

些細で平凡で日常的なもののために

 

苔さんの『人生取り戻し日記』を読んで心を打たれた。彼が経験したことはもちろんのこと、誰かの笑いや歓心を買おうとしない、率直な文章が大好きだと思った。ここ数日、彼の文章について考えている。

 

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去年、就職を前にした友人たちが、学生として考えてきたことを書き残しているのを見た。良い悪いではなく、きっと毎日働くようになったら考えることや感じることは変わる。だから私も書いておこうと思う。その心境と、苔さんの文章が重なるところがあった。私の卒業記念の具に苔さんの文章を使うのは心苦しいが、許してほしい。

 

私は苔さんの『人生取り戻し日記』を些細で平凡で日常的なものへの讃美歌として読んだ。

 

 

大学時代に起こったことすべてを振り返ろうとすると、今回自分が書こうとすることのテーマに合わせて、当時の心境や出来事を歪ませてしまうだろう。だから、ここでは卒業論文を書いていたころや、その後卒論を評価してもらったころのことについて書く。本当は、今年は生半可な態度で就職活動をして苦い思いをしたり、思いがけない再会や大きな別れがあり、たくさんのことが起こった。感染症の流行で、いらだちや不安を感じることも多かった。だけれど、そういったことについて書く覚悟はない。言葉にしてしまうのが怖い。一方で、学業と密接に結びつくことの、なんと言葉にしたいことか。それは学業が自分に言葉を授けたからであり、また他方で自分の心の脆弱なところから適度に距離をとって綴ることができるからだろう。

 

卒論のインフォーマントのひとりから、とても嬉しい言葉を贈ってもらった。卒論の草稿を読んで、自分の置かれた状況を言葉にして受け容れてもらいたかったことに気づいたという。そのとき、私の卒論の意義がはじめて分かったように思う。もちろん、フェミニズムや障害学との接続の可能性から、私は生理という主題そのものには当初から大きな意義を見出していた。だが、インフォーマントの言葉から分かったのは、生理について話す/話さない場面を聞き取った意義だ。誰かの日常を言葉にして他者に対して開くことは、その誰かがそこにいて生活していることを、きちんと認める方法のひとつなのだと。

 

たしかに、自分の生理があまり重くないことや、生理と性自認が喧嘩しないこともあって、卒論執筆中に生理がくるたび、厄介だけれども慣れっこな日常の一場面を取り立てて騒ぐ自分を滑稽に思っていた。それだけ生理についての記述は、私にとって日常に根差した記述である。そんな自虐的な気持ちが、誇らしさに変わった。日常を言葉にする仕事は社会学がこれから取り組むべきことのひとつだと、卒論を実質的に指導してもらった先生が言ってくれた。

 

 

思えば、18歳の私は、当時吹き荒れていた安保法制をめぐる議論だったり、中国が台頭し英米でポピュリズムが勢いを増す国際社会の情勢だったり、そういう「大きな」ことを議論できるのが「立派」だと思っていた。もちろん、そのような議論は大事なのだが、いざ大学に入ってみて、政治学や経済学といったディシプリンが、自分の得意なことでもなければワクワクすることでもないと気づいたとき、「私」の新しい一面が立ち上がったように思う。

 

そうは言っても、社会学を専攻に選んだ当初は、「社会の仕組み」なるものを解き明かしたいなどと言っていた。それがいつから些細で平凡で日常的なものの記述に興味を持つようになったのだろう?はっきりと覚えているのは、留学中、ロンドンを社会学的に観察する授業で、家のクリスマスの装飾や、うなぎのゼリー(煮凝りというべきか、そんな料理がある)を題材に、階級差を論じたエッセイに魅了されたことである。そんなエッセイのひとつに、社会学の仕事をcollector of the discarded and the enchantment of the mundane と記述したお気に入りの一節がある。今読み返してみたら、この言葉を書き残した人物が、私の卒論の下敷きにしたアーヴィング・ゴフマンを愛読していたと書いてある。些細で平凡で日常的なものに注目してこの授業のために書いたコインランドリーについてのエッセイは、自分で気に入っている大学時代のレポートのひとつだ。

 

 

「些細で平凡で日常的なもののために」という言葉は、ボリス・グロイスの『アートパワー』からの引用である。

 

現代の美術館は、アウラを帯びた、天才の非凡な作品のために、その福音を歌うのではない。むしろ、些細で平凡で日常的なもののために歌うのだ。… 今日では、大衆文化によるイメージの生産が成功しており(それは、まさに成功と呼ぶにふさわしいのだが)、この大衆文化のほうが、エイリアンの攻撃や、終末や救済の神話や、超人的なパワーを授けられたヒーローなどに関心を抱いている。確かに、これらすべては魅惑的で教訓的である。しかし、ときに人は、普通のものや通常のものや平凡なものを鑑賞したり楽しんだりすることもできたら、と思うのだ。

 

とても単純化してしまえば、些細で平凡で日常的なものは、市場でウケるもののアンチテーゼなのである。

 

私が「些細で平凡で日常的なもののために」というとき、それは「小市民らしく日々の小さな幸せに満足しましょう」ということではない。平凡な日常を享受できる余裕や、些細なものに目を留める余裕は公平に分配されていない。「些細で平凡な日常の美しさ」と言ってしまえば、ともすると特定の消費行動に私たちを誘導する、企業戦略に乗ってしまいかねない(狭義の「丁寧な暮らし」は高い道具や高い農産物なしにおくれるだろうか)。続く日常があまりにも重く、恐ろしく、からだを引きずって日々を送る人もいるだろう。些細で平凡な日常は、差別や格差が私たちを痛めつける現場であり、また私たちが他者を痛めつける現場でもあり、他方で差別や格差に私たちがさまざまな戦略で対処する現場でもある。だから、こんな日常を私が送るのは不正義ではないかというとき、私の日常のために声を上げ、要求をしなくてはならないこともあるだろう。誰もが些細で平凡で日常的なものを感じられる社会を願うのは政治的な態度だ。

 

苔さんの『人生取り戻し日記』は、労働によって生活から疎外されてしまった人が、何かのついでではない自分の生活を再生させる記述として読めると私は思った。ワーク・ライフ・バランスの「ライフ」は、子育てやスキルの獲得といった他の「ワーク」を陰に陽に意味する。資本主義社会が積極的に意義を与えるとは限らない、夜の散歩や難儀して作るマッシュドポテトや難しい本を大切に書き留めること。苔さんの1週間は特別であるという意味で「非日常」だったろうが、お腹が空けば眠くもなるからだにとって些細で平凡で日常的なものを回復し、生活者に戻る営みだったのかもしれない。

 

 

明日から私はフルタイムの労働者になる。国際協力や開発に関わる仕事につく。これまでの文にこじつけて、私の仕事が誰かの些細で平凡な日常を作ることを願ってもいいだろう。あるいは(より大事なこととして)、自分の仕事が誰かの些細で平凡な日常を破壊しないようにしたいという抱負を書いてもいい。そこには真実もあるが、ただ文章を綺麗に締めたいだけのような気もする。だから、私が学生時代のある時点(それがたまたま最後の時点)でこんなことを思っていたよ、と書くだけで終わりにしよう。