shivering in blue

旧チキンのロンドン留学記

「三浦俊彦教授によるトランスジェンダーに関するオンライン記事について『東京大学関係教員有志声明』への応答」への応答

tocana.jp

以下に、この応答について応答します。なんでそんなことをするのか。

変なことを言う奴に構うから調子に乗るんだ、無視するのが一番。

 

確かにそうかもしれません。それでも応答する理由は、

・読んでて超ムカムカした。吐き出す場が必要。

・抗議声明への応答に教員有志が再抗議はできないだろう。それで誰も何も言わなかったら応答文がまかり通ったということになってしまう。しがない個人ブログでも何かを言ったというのは大事だと思う。

・これに論理的に返答するのはいい頭の体操。

・留学を経て変わった自分の差別やクィアコミュニティに対する考え方が滲むだろうから。2019年の自分の現在地の記録用。

 

これから偉そうに指摘を連ねるわけですが、文章を書くことについては私も半人前です。新聞社でインターンしているなかで「差別はなくせるか」という題の作文を練習で書き、添削してもらったのですが、

「首都圏出身であることが自分に有利に働いた」:地方出身者を不快な思いにさせる

「差別が行われているか自問し続ける必要がある」:差別の解決を個人に矮小化

など、自分を知らない他者に読んでもらう文として不適切なところがたくさんあり、たくさん注意されました。

 

本当に意図していない意味を、自分が発した言葉が持ってしまう。

指摘する警察官の役目に酔うことは簡単ですが、そういう自分はどうなんだ?

ためらいはありますが、でもこの応答文に抗議しないではいられないです。

 

三浦教授による応答の問題点のうち、特に重要だと考えるものが以下の3点です。

 

①トランスジェンダーはシスジェンダーと比べて「より少ない人権」にしか値しないという主張

ジェンダーは、身体的性別を基盤としてその上に創発する、高次の構成概念であると私は理解しており、身体とは独立にトップダウンで認定できるような単純属性ではないと考えています。また、かりに性自認が揺るぎないものだとしても、身体違和を伴わないジェンダー違和のケースについて性別変更を奨励するマスコミの風潮は、ジェンダーをむやみに実体化することにつながります。それは性役割の無意味な延命を可能にし、社会や個々人に(当事者も含め)混乱をもたらすだけだと私は考えます。身体違和のある人(性同一性障害の人)には、保険適用の性別適合手術および性別変更が望ましいでしょう。しかし、ジェンダー違和のみ抱える人(性同一性障害でないトランスジェンダー)に対する支援は、「性別変更」よりも良い方法があると私は考えるのです。

  • 「身体違和を伴わないジェンダー違和」は存在しうるのか?身体的性別とジェンダーは深く関わっているという前述のポイントと矛盾しないか?身体的違和の解決法は手術だけなのか?
  • 「ジェンダーをむやみに実体化」とは????????
  • そもそも論だけど、「性別変更」という表現は恣意的ではないか?報道等の現状を考えると問題ないと思うけど、「性別変更」というとこないだまで男性だったけど今日から女性になりたいです、みたいな印象を受ける。どちらかというと、現状の社会制度では自分(ジェンダー自認・セクシュアリティ・欲望、諸々)として生きられないので、生きられるように法的性別や性表現等を調整させてください、という要請。

 

生来の性別のまま「性自認が特殊な(個性的な)人」として偏見なく受容される社会の実現を願った方がよくはないでしょうか。
  • 「特殊な・個性的な人」という表現はすでに偏見含み
  • 法的な性別の役割、法的性別が性自認と一致することによって受けられる権益を矮小化しすぎている。法的な性別を変更することのメリットは心理的なもの(これでも十分すぎるほど十分なんだけど)だけでなく、権利のリクレイム(近代国家の制度の中で人間として扱われること)にある。incremental な変化と制度に内包された構造的差別とを混同している。

 

 

 

トランス支援がなぜか「性別変更促進」と同義になっていくという現状を、一人でも多くの人に批判的に考察してほしい。元記事の意図はそれに尽きます。

  • 言い換えれば、「トランス支援が『人権擁護と同義になっていく』という現実」。法的性別という制度を完全に撤廃しない限り、生活が可能であるような法的性別を付与されることは人権の1つですよね。 

 

向学心あるトランス学生であれば、広範囲での情報収集を厭わないでしょう。法的性別変更を一様に賛美するマスコミ的キャンペーンには収まらない多様な選択肢に気づき、自己の幸福の可能性を探索するにあたっては、元記事はそれなりに有益な情報源になると私は信じます。
  • 抑圧されている存在は自ら努力しなければ救済されるに値しない、というところに端を発している発言だと思う。

 

元記事のような情報発信は困る」という有志声明の姿勢は、若者を当面の不快感から防衛するだけではないでしょうか。不愉快なデータを避けていては学問も教育もできません。長期的に見て差別解消につながるとも思えません。

  • 「不快感」(自分という人間の存在価値が貶められているような感覚)を「若者」に持たせることが大学の構成員に許されるのか。不愉快な真実(e.g. トランスジェンダーの人が現状の社会制度のもとで生きるためには多くの不都合がある)というのと、不適切な発言(e.g. 手術を選択しなかった・できなかったトランスジェンダーの人に自分の性別で生きる権利はない)には大きな差があると信じます。

 

少なくとも私的な場では、各人をその望む性別として扱うことはマナーであり、それに反することは失礼である、と私も十分わきまえております。ただそれはあくまで「扱い」です。「◎◎であることを望む」と「◎◎である」は理論的に異なる、という事実が、◎◎=性別 のときだけ否定されるべき合理的理由はありません。

  • ??? 非常に単純化して表すと個人的な理解では、「ある人物Xが女性であることを望み(望むよう教育され)女性として振る舞う+周囲の人間や法・医療制度がXを女性として扱う=Xは女性である」
  • 「特定の性である」という言い切りが単独で成り立つと信じてるあたり、本質主義(essentialism)に立ってるの?

 

「レズビアン社会で、シス同士と同等の性的関係をトランスが享受できない限り、差別がある」という処理困難な苦情

  • 処理困難な苦情、と言い放つ時点で、オペ前のトランス女性の身体は望ましくないという偏見を再生産していませんか。

 

②「性的同意」と「社会的承認」が密接に関係しているからといって、前者と後者の両立を倫理的に目指すことを放棄している姿勢 

男性器を持つMtFが女性IDを法的に持つ社会では、MtFレズビアンは、ヘテロ女性を選ぶわけにいかない、というジェンダー意識に縛られます。

  • 単純にどういうこと?????性的合意の成立には法的IDが関係するのか?これでは、例えば私(シス・ヘテロ)なら法的男性としか関係を持てないと日々思って暮らしているということ???MtFレズビアンが誰と性的関係を持つかって相手の性的指向によって判断されるんですか?
  • 選ぶわけにいかないとかじゃなくて性的合意は自分のジェンダー・セクシュアリティに関するあらゆるアイデンティティとは無関係に全人類が勉強して身につけるべきことなんですわ。

 

Fuckと社会的地位を結び付ける解釈は、それこそ「社会的承認と性的同意との混同」に該当しかねません。

  • Fuck(誰とどのようなセックスをするか)と社会的地位が結びつきまくってる社会っていうのを端的にいうと「異性愛規範による抑圧」ってことだと私は理解しています

 

ともあれ、社会的承認と性的同意とは、概念として明瞭に区別できるにしても、個々の事例において識別するのは容易でない、という厳しい現実があります。

Drew Deveauxは、本人のブログの記述によると、女性としてのパス度が高く、シスレズビアンと自然にセックスしそうな流れになりながら、MtFと知られたとたんに突き放される、という経験を幾度かしています。「性的自由ではなく差別だ」と言いたくなるのもうなずけます。外国人と同衾したとき、自分は日本人だと話したとたん相手に逃げられたらどうでしょう。性的自由の表明というより、社会的偏見が(拒否者の)性的自由を汚染しているように見えるではありませんか。

 

  • 「個人レベルで、誰か具体的な人とセックスする(性的同意)」と「社会レベルで、内在化された偏見が性的関係を取り結ぶ上で辺縁にある特定の集団に不利益を被らせている(社会的承認)」という風に言い換えた方がわかりやすいだろう。三浦教授の、両者は深く深く結びついているという指摘は間違ってはいないし、抗議した教員有志の同一視は二重に有害だという議論にもうなずける。私個人としてこの件で三浦教授が非常に不適切なのは「問題の観察」と「解決策の提示」の間に必要な倫理的な一線がないところだと思う。
  • 私(A)が外国人(B)にセックスを断られたとしよう。その外国人に日本人を差別し蔑視する内在化された規範があったために断られた。性的同意と社会的承認は密接に関係しているに違いない。ここまでは「問題の観察」といえよう。
  • じゃあ解決策はなんなの?ABにセックスを迫り続けることなのか?それはBの性的同意を行使する権利を阻害しているばかりでなく、構造的に抑圧されたA個人に問題の解決を強いている上でも問題だ。社会的承認と性的同意が密接に結びついているからと言って、ある個人の性的同意が侵害されることは倫理的にあってはならない。性的同意と社会的承認は解決策の上では(いくら実際面ではその境界が曖昧だったとしても)区分されねばならない。
  • 社会的承認から徐々に、個人が意識できないような形で、性的同意を変えていくことはできる。わかりやすいのはアメリカのジムクローのように刑罰化された異人種間性交の扱いの撤廃やポルノ産業における非白人の性的側面の誇張の撤廃を目指すこと、が例としてあげられる。

 

あなたが、したくないセックスはしなくていい、その夜はそれで帰ればいい。

社会のどんな仕組みが、なぜある人たちにそのセックスを拒否させたのか、分析して考えてみよう。変えていってみよう。

 

この2つが両立すると信じることで人権の擁護を目指すことができるのではないか。

 

「問題の観察」の上で、いくらこれがダブルスタンダードで非論理的な分離であったとしても、実際的な影響のある「解決策の提示」においてはこの線は引かれなくてはいけない。人間が一緒に暮らすためのルールだ。

 

アクティビストは社会的承認を目指しながら、人を動かすためのレトリックとして個人の性的同意がターゲットであるかのような表現をしばしば使うと私は思う。(アクティビストのそのような戦略を決して好意的に見てはいないがアクティビズムとアカデミズムは違う。)

 

③反差別闘争をよくないことであるかのように描く

このように性的同意と社会的承認の分離はむずかしいのです。さらに厄介なことに、分離できたとしても解決しません。なぜなら、トランス女性が完全な女性なら、【性的自由を各人が発揮した結果として、シスレズビアンのパートナー選択がシスレズビアン同士とトランス女性相手とで不偏(確率計算通り)になる】はずで、偏りがある限り差別がある、という反差別闘争が予想されるからです。

  • 反差別闘争が予想されることの何が悪いんじゃ。反差別闘争ではなく、差別されること自体が予想される、という言明だとしても、トランス女性が望ましくない身体である、あるいは割合に合わず望ましいと見られる(過剰に性的に見られる)という言明で不適切(前述)。
  • MtFへの差別の現状を踏まえると、シスレズビアンのパートナー選択に偏りが見られるだろうという現実の分析を提示してるつもりなら、それの差別の解決策は誰かの性的同意を犠牲にすることではない(前述)。

 

「混同するな」と教えるだけでは混同は防げません。cotton ceiling は、反差別運動から必然的に生ずる副作用です。元記事は偶発的な混乱を針小棒大に煽ったわけではありません。

  • じゃあどうしたら混同を防げるんですか。こうやって、まずい記事に1個1個反論することで、「したくないセックスはしない」と「欲望されない身体を作り出す偏見を社会レベルで取り除こう」っていうのを両立させようとしているんじゃないですか。

 

「LGBT先進国で法的な合意がある」という記述言明が、「日本で同様の法制度に向かうべきだ」という規範言明の理由にはならないこと。もはや欧米の後追いをしている時代ではない。いまだ銃犯罪や差別に揺れる国々のうわべの倫理を模倣するよりも、日本が独自に一歩先を歩み、彼らに対し模範を示すべき時である。

  • 銃犯罪に揺れているのは欧米というよりも米だけで今回の件とは無関係。
  • 差別に揺れる国というのは抑圧された存在が声を上げられている国。権力と差別は不可分だからこそ、差別に声を上げ続けることでしか人権や法の下の平等は保証できない。誰からも声が上がらない(差別に揺れていない)国が一番怖いと、私は思います。