shivering in blue

旧チキンのロンドン留学記

「生理の多様性」を言葉に落とし込む難しさ

生理用品メーカーの花王が展開した、kosei-fulプロジェクトがツイッター上で批判を浴びている。ツイッターでの「流行り」に乗っかることは(ことにジェンダー関連の話題については)思いつきの大演説しか生まないからやめるべき、と自制している。だが、今回の話題は私の卒論とも密接な関わりがあるので、今時点の自分の問題意識をまとめるためにも、kosei-fulプロジェクトへの考えを書きまとめる。

 

*私は、医学や保健の文脈で捉えたい時には「月経」、生活の経験として捉えたい時には「生理」と大まかに使い分けている。それは決して月経が隠蔽されるべきものだと考えるからではなく、日常語として「生理」を使う人が多い以上、「生理」の方が日常の経験に根差した言葉だと考えるからだ。

 

  1. 自分が賛同する2つのツイート

私がはじめにこのプロジェクトについて知ったのは、下山田志帆さんのツイートからだ。

 

プロジェクトが「個性」という言葉によって「きれいごと」化をはかっていること、それが批判されべきことに、私は深く同意する。なぜなら、ツイートにもある通り、生理そのものの「重さ」(経血量や月経痛の程度)と関わりなく、生理のジェンダー化された意味や月経周期を持つからだそのものが苦痛であったり、不便であったりするときに、生理は「きれいごと」では済まされないからだ。

また、(これは障害をめぐる議論についても言えることだと思うが)「個性」という言葉での表象は、それが意味する月経/生理(あるいは障害)がスティグマを負っていることの裏返しにすぎず、月経そのものをタブーから解放するものではない。

さらには、生理を「個性」として捉えることは、必要な支援を受けることを妨害しかねない。様々なジェンダーの有経者(月経がある人)がいるという留保をはちゃめちゃにつけなければならないが、生理をめぐる資源の不足(生理用品が軽減税率にならないとか生理で休み取るのは事実上不可能とかフリフリすぎるナプキンのパッケージデザインとか)は多分にジェンダー間の不平等に起因しているのである。「個性」という言葉は、社会が一部の人びとにのみ生理とともに生きる負担を課していることを覆い隠す。

 

一方で、瀧波ユカリさんの以下のツイートにも深く賛同する。

 

フェミニズムの歴史においても、月経や妊娠など、身体の性差にまつわる出来事を煩わしく思い、科学技術の発展による性差の最小化を望んだ人々と、月経や妊娠に神秘性を見出し創作の題材とした人々がいた。この違いに深く結びつくのは、男女の身体の差異を小さいものだと訴えることで平等を目指すのか、それとも女性の身体特有のニーズや生の有り様が無視されていることに異議を申し立てるのか、という運動の方向性の違いだ。(荻野美穂『ジェンダー化される身体』 2002)

月経が神秘的だなんて、近代科学・医療に信頼をおく社会では小馬鹿にされそうだ。しかし、性差最小化の路線はともすると、身体の多様性を無視してはじめて成り立つ、あるいは医療の全面的な管理の下で成り立つジェンダー平等に行き着く。だからこそ、「浄化」や「わがままな私」といったサイト上の発言を揶揄するツイートは、ツイートした本人にその意図はなくとも、特定の身体感覚や性差への向き合い方だけが正当だと訴える効果を持ってしまう。

 

引用した研究では、文章として発表されたものをもとに、生理をめぐる身体感覚を大きく2つに分けているが、日常を生きる有経者にはそのどちらでもないと感じたり、日によって立場が変わったりする人もいるだろう。この、生理をめぐる身体感覚の多様性や揺らぎこそが、私の卒論の興味関心のひとつであり、身の回りの人びとに訴えていきたいことでもある。

 

*ちなみに、私は生理が「浄化」であり「リセット」であると感じる。なぜなら出血はどん底な生理直前の日々が終わる知らせだからだ。私は月経中よりも月経前の方がしんどい。これも生理をめぐる身体感覚の多様性だ。

 

  1. Kosei-fulプロジェクトは何を目指しているのか

さて、瀧波さんのツイートをリツイートした時点で、私は(ようやく恥ずかしながら)kosei-fulプロジェクトサイトの冒頭のメッセージ文だけでなく、コンテンツ全体をきちんと読んだ。そこで、プロジェクトの大方針は、生理の多様性を訴えようとするものだと私は解釈した。その根拠は下記のような点である。

 

  • サイト冒頭のメッセージ文にある、「生理は1人ひとり違う」「その違いを受け入れることができれば」といった表現。
  • 「私と彼女の生理の個性展」という企画の題。「私たち」ではないことが強く意識されているのではないか。
  • 「私と彼女の生理の個性展」において、方向性の違うアンケートへの回答を掲示することが意識されている。(例:Q1 「あなたにとって生理とは?」には、「面倒なもの」も「自分をリセットするもの」もある。)

 

ここまでは、1で訴えた自身の問題意識とバッチリ一致している。では、このプロジェクトに感じる違和感は何なのか。

 

  1. Kosei-ful プロジェクトサイトのどこを批判するか

問題は、「生理の多様性を訴える」という試みを、その伝え方が裏切ってしまっているところにあると思う。それは以下の点に疑問を抱くために感じたことである。

 

  • プロジェクトの中心的なキャッチコピーは、「生理を”個性”ととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる。」である。「個性ととらえる」と「人によって違うものだととらえる」は概念として近そうだが、決してイコールじゃない。下山田さんのツイートにコメントした通り、「生理の多様性」は月経痛がどれほど重いかなどに限定されず、もっと広い意味を持っている。「生理」を何と捉えるか、どうしたらもっと生きやすくなるか、を含めて多様なのだ。どう捉えたら生きやすくなるのか、花王に指図される言われはない。 
  • 「個性」がなぜムカつくかについて、付言する。ここまで論じたのは1)「生理=個性」という捉え方をする人ばかりでない、2)個性という言葉は月経/生理を隠蔽し、個人の問題にしてしまうことで支援を遠ざける効果を持ってしまいかねないという点だった。それはなぜか?私は、「個性」に属人的で変えがたい特質という含意があるからだと思う。ここからは、生理が持つ大事な二つの要素が抜け落ちている。1つは、生理の経験に環境や周りの人、社会の不平等構造がたぶんに関わること、もう1つは生理が出血と疼痛に限定されない、様々な心とからだの変化を含め持つということだ。繰り返しになるが、「個性」という言葉は物質でもある身体のダイナミックな変化を捉えきれず、生理の経験を個人に閉じてしまう。
  • 「生理が多様だ」を広報しようと思った理由が「女性同士の理解が足りないことが問題だからだ」なのが透けて見える。前提として、有経者に様々なジェンダーの人がいることはさっきはちゃめちゃに注意喚起したばかりだ。生理だから休みたいという要求が通らないのは、ジェンダー不平等が理由で生理をめぐる資源が不足しているからで、女同士のいがみ合いが根本の原因ではない。つまるところ、なぜ生理用品メーカーが「生理の多様性」を訴えるのかが、よくわからない。(cf: この点がユニチャームのNo Bag for Me Projectとの違いだと感じる)
  • 「個人差はあるものの、生理そのものについては綺麗に美しく表現しよう」という裏のメッセージが十分に読み取れる。サイト内の特別動画で取り上げられる意見は「しんどいけどどうにかなる」人のものだけだ。どうにかならない人は無視されている。サイトのモチーフはレーダーチャートを「天然石のように美し」くイラスト化したものだ。私は、自分のジェンダーが天然石やらレースやら花やらと結びつけられることに飽き飽きしている。(これは私が天然石や花が大好きなことと矛盾しない)。生理が多様であることを訴えるプロジェクトは、従来の生理用品のパッケージやコマーシャルと同じような、ジェンダーステレオティピカルなモチーフを使ってしまった。

 

  1. 卒論への示唆

ここまでの考察から、私の卒論への示唆が3つ得られた。

 

 ①「月経/生理とは〇〇である。」という命題は、とても大きな磁力を持っている。「個性である」という花王の言葉が大きな反発を招いたのも、「とてもしんどいものである」というツイートが流通しているように見えるのも、その現れだと思う。歴史的に、「月経は不浄なものである。」「月経は良妻賢母の育成と富国強兵のために重要なものである。」「月経は医学・保健衛生の適切な管理のもとにおかれるべきである。」などの、様々な「月経/生理とは〇〇である。」が流通し、張り合ってきた。一方で、権力者が掲げた定義が、日常を生きる女性たちによっていいように解釈され、流用されてきた。(田口亜紗『生理休暇の誕生』2003)。

小山健の漫画『ツキイチ!生理ちゃん』の登場や、「脱タブー化が進んでいる」というメディアでの論調(2020年4月2日朝日新聞記事)によって、あたかも生理を語ることは新たな局面を迎えたかのようである。しかし、「月経/生理とは〇〇である。」という言説が張り合うアリーナは健在なのではないか。

 

②「月経/生理は多様である。」と、どうしたら訴えられるのか。花王が試みたのは、自社社員の多様な生理を、社員自身によって言語化してもらい、その「分析結果」をメッセージ文やウェブコンテンツとしてまとめることである。これは、インタビュー調査によって、私の身の回りの人に自分の生理を言語化してもらい、私がそれを分析してなんらかを述べることとあまり変わらない。

多様性を訴えるということは大きな難しさを抱えている。「多様だ」と言ってみたところで、その内実は伝わらない。一方で、具体例を列挙してみても、そこに書かれていない例はいくらでも存在する。さらに、マイノリティに自身のからだや生活をさらけ出し、具体例になってくれというのはマジョリティの傲慢であることも多い。(森山至貴『LGBTを読みとくークィアスタディーズ入門』という新書のAmazonレビューに、「この本からはLGBTの実態がわからない」という一文があり、愕然とした。)結局は「分析結果」をどう書くか、「分析結果」の書き方が「多様性」を裏切るものにならないかどうか、細心の注意を払うしかないのだろうか。

 

③上記の点に関連して。「生理は多様だ」を発信するとき、それが誰による、どういった目的の発信であるか、は存外重要なことだと思う。花王は、3.でコメントした通り、なぜ生理用品メーカーが、女性同士の理解の不足を焦点化したかに、明確な答えを出せていないのではないか。私は「一学生による」「既存の研究で十分に言及されてこなかった実態の解明」を目的とした発信だから、難を逃れるわけではない。社会学を覗き見趣味に喩えた社会学者もいたが、人の生を研究対象とする理由、人の生を研究対象とすることの暴力性やグロテクスさについては、自戒を込めて考え続けなければならない。

 

とても長くなってしまった。こんな時間があるなら卒論本体に取り組むべきである。

この文章が誰かに届き、一緒にこの話題について語らう契機になったら願ってもないことだ。