shivering in blue

旧チキンのロンドン留学記

対称とアナロジーからの逃れがたさー女性の生理と男性のマスターベーションを対にすること

例によって、ツイッター上で月経の話題が出ると、何かを言いたくてうずうずしてしまう。今回は、ともに「受動的な面」があり、「切迫性」をともなうという点で、女性の生理と男性のマスターベーションに「似ているところがある」と述べたツイートと、そのツイートへの批判に触発された。

 

何を書くにしても、もとになったツイート、もとのツイートが土台としている記事、批判のツイート…etc を丁寧に参照して、丁寧に引用して書くべきだろう。でもそういう気分ではないので(苦笑)、あくまで女性の生理と男性のマスターベーションの取り合わせについて思うことについて書いてみたい。なので、あえて元のツイートを引用しないでおく。このエッセイは直接的な批判として打ち立てるには脆弱で、あくまでインスパイアされたものにすぎないので…。また、私がここで言おうとしていることは、すでにツイッターで言っている人がいそうな気もする。

 

さて、私がここで考えたいのは、女性の生理と男性のマスターベーション(本エッセイでは、厳密には射精)を並べる発想が、珍しくはないということだ。女性の生理と男性のマスターベーションが似ているという発言への批判については、私にはおよばない鋭い視点で、すでにさまざまなされているので、割愛しよう。

 

 

月経・射精を対称なものとしてとらえる発想

私が最初に、月経と射精を対としてとらえる発想に出会ったのは、そもそも月経と射精という概念を得たときである。小学5年生の保健の教科書。男の裸体と女の裸体が並べて書いてあり、それぞれの下にこれから起こる出来事が書いてある。月経では血が出て、射精では精液が出る。初経と精通は、どちらも、成長を象徴する「健康」で「自然」なものであり、喜ぶべきことである。

 

それから3年後、私はひとつの勘違いをしていたことを知る。なんと、月経とは違って、射精はある程度コントロールできるものらしい!しかも、精通は、マスターベーションによって起こる場合が多い!小学校の保健の先生の口ぶりから、私はある朝起きたら下着に精液が付いている、という「月経式」に射精が起こると思っていたのだ。おそらく、射精がある人のうちには、月経が「射精式」である、つまり自分でなんらかの刺激を起こすことで血を出したり引っ込めたりできると思っていた人もいるのだろう。

 

(ちなみに、理科のおしべ・めしべ的な理解から、私はどうにかして卵子と精子が出会う方法があるはずだと考え、性交について知るまで、私の母が、洗濯をする前に、こっそり洗面所で私の父の汚れた下着を裸の股間に履き、かくして自分が誕生したのだと推論していた。私史上もっともロジカルなシンキングである。)

 

初経と精通の対置に始まる、月経と射精を対称のものとしてとらえる発想は、卒業論文を書くなかでも何度か遭遇した。例えば、小山健『生理ちゃん』の第6話(https://omocoro.jp/kiji/123753/)は、高校生の男女のからだが入れ替わるというエピソードだ。このエピソードでは、男子高校生が生理のしんどさを直接経験するのだが、もうひとりの主人公、女子高校生の方は、のべつまくなしにやってくる性欲のしんどさを直接経験するという筋になっている。生理と、性欲→マスターベーション→射精が、どちらもやりたいことの達成を妨げることとして、それこそ「受動的」で「切迫的」なこととして、対置されているのである。学術論文でも、月経へのイメージと射精へのイメージを対比した論文がある(猪瀬優理(2010)「中学生・高校生の月経観・射精観とその文化的背景」『現代社会学研究』23: 1-18)。これらの例から見えてくるのは、子どもから大人に、つまり性的な存在になる過程で男女を分けるものとして、月経と射精(マスターベーション)は同じ位置づけにあることである。

 

射精とマスターベーションは微妙に異なる。小学生の私のように、射精の前後にある出来事を無視して、単なる体液の放出としてみるのか、それとも「性欲」に突き動かされて「自ら」マスターベーションを行うのか。「能動的な行為」にみえる「マスターベーション」を「受動的な」ものとして読み換えることには、確かに一定の新規性があるかもしれない。しかし、マスターベーションの結末として射精が想定されているとしたら、月経と射精を並べてみること自体は、小学校の保健の教科書とあまり代わり映えがないのである。

 

(もちろん、男性のマスターベーションが必ずしも射精につながるわけではない。)

 

なぜ、月経と射精は対置されるのだろう?よくよく考えたら、月経と射精は異なる出来事である。生殖に関わる細胞の排出に注目するなら、排卵と射精だし、性的な刺激を欲することの文脈に位置付けるなら、クリトリスの話をしてもいいのである。排出される液体が問題なら、膣分泌液の話をしてもいい。初経と精通が対置されるのは、どちらも第二次性徴期にわかりやすく生殖器の成熟を指し示す出来事だからだろう。だが、きっかけが何であれ、対置することには、男女の差異を作り出す効果があるといえよう。体の妊娠への準備が徒労に終わった出来事としての月経、親に祝われてもおかしくない初経。保健の教科書の限りにおいては言明が避けられるけれども、マスターベーションや性交との関係が示唆される射精、かなり性的なこととして親には秘匿されるのが当然の精通。生殖における役割やイメージをめぐるジェンダーステレオタイプと、月経・射精の対置は、連動していると思われてならない。月経=女性は、性的欲望からは遠い存在なのである。月経と男性のマスターベーションを並べることで、女性のセクシュアリティが不可視化されることは、冒頭のツイートへの批判としてもすでに挙げられている。

 

 

対称/対照としての男女の身体

さて、そもそも月経と射精を対置する発想はどこからくるのだろう?ここでは、トマス・ラカーの『セックスの発明――性差の観念史と解剖学のアポリア』を自分なりに解釈しようとする。だが、読みこなせている自信はまったくなく、ラカーの主張をうまく理解できていない部分もあるかもしれない。

 

ラカーの主張を、おおざっぱにまとめるとこういうことになると思う。19世紀以前、女の身体は、男と同じものだけれども劣ったバージョンだとみなされていた(ワン・セックスモデル)。例えば、女は熱が足りないがために男と異なる(めちゃめちゃあっためたら男になれるかもしれないぐらいの感じ)。しかし、19世紀以後、女の身体を男に対して異なるもの、反対のもの(opposite sex)として構築する見方が優勢になっていく(ツー・セックスモデル)。この2つのモデルは、どちらも、なんらかの解剖学的な発見があったから成立したわけではない。むしろ、社会・文化的な性のあり方が、解剖学的な知見の解釈に大いに影響しているというのである。

 

例えば、今日の卵巣は、睾丸とまったく同じものが、女はエネルギーが足りないがために(苦笑)、体内に引っ込んでいるものだとかつては思われていた。「卵巣」という言葉さえなかったのである。それが、いつのまに、女を男とはまったく異なる存在に仕立てる臓器として卵巣が描かれるようになり、ラカー曰く、「女性の身体の秩序全体を牛耳る原動力」とみなされるに至ったのだ。

 

このラカーの議論を、フェミニズムが批判してきた二項対立と結びつけてみたい(この辺りはとても雑なので、大目に見て欲しい)。二項対立的なとらえ方とは、男と女、心と体、理性と感情、西洋と東洋などなど、排他的で異質なものとして2つの概念を立てて、一方が他方よりも優れているという前提をもたらすような、世界のとらえかたである。これは、ツー・セックスモデルととても相性が良い気がする。男と女は、理性と感情が違うように、まったく違う存在なのである。女をアツアツにしたら男になるみたいな、連続性はそこにない。これは分かりやすさのために大袈裟に言っているのであって、ギリシャ人たちが女をあっためたら男になると思っていたわけではないのだろう。しかし、私はあまりにもツー・セックスモデルに慣らされすぎていて、これくらい大袈裟にとらえないと、ワン・セックスモデルをうまく想像できない。

 

ここから私のフリーハンドな妄想になる。ひとくちに男女の身体が異なると言っても、ただ違うというだけでなくて、それは正反対(対照)であり、ぴったりと対応するところがある(対称)という意味での、「違い」として、想像されているのだと思う。男の強さには、女のしなやかさ。男の直線には、女の曲線。男の豪快さには、女の繊細さ。この対称/対照のパズルに、射精・月経はうまいことフィットするのではないだろうか。筋肉の強さ、身長の高さ、足の速さなど、連続体でとらえられている違いも、もちろんあるが、私たちが男/女というコンセプトを理解するのに、対称/対照の枠組みが、大きな役割を果たしている、ということが、ここで私の言いたいことだ。

 

では、このように考えたとき、女性の生理と、男性のマスターベーションが似ているというのは、どういう意味を持つのだろう?それは、対照に見えたものに実は類似点があると主張している点で、二項対立を乗り越えている。だけれども、そもそも男女の身体に対称な点を見つけようという発想自体は、乗り越えられていない。さっきもクドクド書いた通り、月経と射精は体のなかで起きていることを含めて、いろいろ異なるイベントである。それを、「女の〇〇と男の××」式にまとめ上げることには、対称な点を見出す発想が透けて見えてしまう。

 

(ツイートの著者にどのような意図があったのか?私にはわからない。あくまで、生理とマスターベーションが似ているという命題を、ここまでのつらつらした考えに位置付けようとしただけだ。)

 

 

アナロジーを越えた先で出会う場所

最後に。ツイートなんて思いつきを言うだけなので、こんなことを言われる筋合いはどこにもないのだが、男性のマスターベーションを「受動性」と「切迫性」からとらえたいなら、生理を巻き込んでくれるな、という私の気持ちについて、書いておく。

 

何かを何かになぞらえて理解しようとするアナロジーは、とても便利だけれども、ちょっと難しい道具でもある。私が卒論で参考にしたものに、フェミニスト現象学から生理の話し難さを論じたものがある(宮原優(2020)「なぜ月経を隠さなくてはいけないのだろうか?————月経のフェミニスト現象学」稲原美苗・川崎唯史・中澤瞳・宮原優編『フェミニス現象学入門————経験から「普通」を問い直す』ナカニシヤ出版,34-44)。この論文でも、アナロジーが用いられている。もし、足の小指に怪我をしていて、それを隠して働かなくてはならなかったらどうだろうか。つまり、足の小指の怪我のように見えないが厄介なもの=生理を隠して働くのはしんどい、というわけである。この論文では、最終的に、現代の労働でさまざまな身体が排除されていることに、生理の話題を接続する。生理のある身体の排除が、障害や病のある身体の排除と根底でつながっていることに、私は異論はない。けれども、少し寂しくなる。いつでも完璧な身体を要求される男性の大変さ、足の小指を怪我をした人の大変さも、もちろん大事だけれども、そこに接続したり、なぞらえたりする手前で、生理だけのための言葉を積み重ねたい。宮原さんは紙幅の都合で接続を急いだのかもしれないけれども、接続する前に、生理だけについてもっと考えることもきっとできると私は思う。

 

卒論を書く過程で、生理は例えば下痢しがちな体質とは何が違うんだろう、とか考えたし、生理の開示・秘匿を性的な経験の開示・秘匿となぞらえるコメントをもらったりしたし、カミングアウト論との接続を見いだしてくれた友達もいた。それはめちゃめちゃ刺激的で楽しいのだけれども、生理をテーマに選んだ自分のエゴとしては、他の現象に接続するのは次のステップという気がする。生理が他の何でもなく生理であることに、まずは迫ってみたい。

 

私も実は卒論で障害学を参考にしようとしたし、結局注で言及するに留めた理由は、あくまで時間がなかったから、だけなのだが、怪我の功名というか、無理に障害学に接続しなくてよかったと、今回の件で思った。障害学はきっと生理の話とどこかでつながっている。けれども、障害学が、障害を負わされた人びとの経験から積み重ねてきた言葉を、あまり早急に盗用(appropriate)するべきではないのだ。障害学の知見を無視せず、でも我田引水もせず、生理の社会学についてきちんと言葉を作っていった先に、ただ単に「似ている」や「つながっている」ではない方法で、両者をともに論じることができるかもしれない。

 

(まあ、私は学術を離れるので、完全にやるやる詐欺です。)

 

今回のツイートを読んで、きっと男性にとってのマスターベーションの経験、性欲や性欲を形づくる市場経済に突き動かされる経験、などを丁寧に追っていく言葉が必要なのかもしれないと思った。生理という、明らかに異なる経験になぞらえる手前で、マスターベーションのミクロな経験を記述できるかもしれない。というか、すでにそういう研究はどこかにある気がする。生理についても、マスターベーションについても、それぞれの固有な経験をきちんと言葉に落とし込んだ後に、それぞれの個別性を捨てることなく、両方の経験をレンズとして使って、からだと社会に突き動かされる人間の姿を描けるかもしれない。