shivering in blue

旧チキンのロンドン留学記

一学期の振り返り(3) (完)

アウシュビッツ

例によって文章が長いし、気づいたらブダペストの写真から遠くへ来てしまったが、文学と検閲の教授が推せるというのと、宗教と科学で学んだユダヤ-キリスト教が近代西洋に与えてる影響半端ないなっていうのとが、冬休みの旅行にアウシュビッツ訪問を組み込む動機になった。アウシュビッツはアウシュビッツで、すざましく近代を象徴するものだった

 

まず第一に、アウシュビッツで行われたのは徹底的に近代的な殺人である。社会学者のバウマンは『ホロコーストと近代』(読んでないですごめんなさい)という本を書いているのだが、なんで「ホロコースト」と「近代」という取り合わせなのかが初めて実感できた

ホロコーストが社会科学を志す者を震撼させるのは、科学技術の暴走だけでなく、官僚制の暴走を見せつけられるからだろう。ドイツ占領域の「犯罪者」を分類し、シリアルナンバーを刺青し、記録写真を撮り、科学的に算出された必要最小限のカロリーで働かせる。ユダヤ教徒をゲットーに集め、ゲットーの路地ごとに順々に強制収容所に送り込み、医師による選別を経て、労働力にならない者はガス室で殺戮する。その効率的な仕組みを支えたものの1つに、書類に基づいた官僚制があるのだ。

優生学も効率的な行政システムも、「文明」の最たる成果で、人間が自分は動物とは違うという尊厳を保つもののはずで、より良い人類のためにユダヤ人を排除しなければならないって信じてる人たちがいて、その結果人がじゃんじゃん殺されたという物証を前に、「なんで人間を殺してはいけないのだろう」という素朴な疑問が抑えきれなかった。

 

第二に、アウシュビッツは共有された記憶である。アウシュビッツ収容所は、実は1~3の主要な収容所に、幾つもの副収容所が付随するという恐怖の巨大施設だ。

キャンプ1は博物館機能を持っている。博物館としてのアウシュビッツのナラティブは、「ナチス親衛隊によるヨーロッパに対する罪(立地するポーランドの香りが強いけど)」というものだ。総合展示の他に各国がスポンサーしている展示があり、ロマの人々に関する展示は絶妙にしょぼく、フランス系ユダヤ人に関する展示は美的センスがすごかった。総合展示は、ただ写真や遺品を、最も簡素な説明文や環境の中で見せるもので、非常な訴求力を持っていた

キャンプ2(アウシュビッツ=ビルケナウ)が『夜と霧』などの舞台になった、ユダヤ人の大量殺戮用の施設なのだが、順路を指示する掲示と、簡素な説明文以外は、当時のままになっている。ガス室だったところには、1945年にソ連軍が迫る中ナチス親衛隊が爆破した時のまま、残骸が雪を被って積み上がっている。

80年前に110万人が集められ殺されていった現場を、世界中の人が観光旅行の一部として訪れ、スマホでパシャパシャ写真を撮り、バス会社は潤い、ツアー会社は儲かり、駐車場にしけたホットドッグ屋がたつ。

アウシュビッツを展示する、アウシュビッツを訪れるとはなんなのだろうか?

 

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20歳で亡くなった学生というのが、胸に刺さる。写真や記録が残るのは「犯罪者」のみで、到着と同時に殺戮されたユダヤ人は収容者番号も与えられなかった。

 

2019年は近代ではない。現代ということになっている。

私は近代フェチをしながら、現代を生きている。

自分が好きな差別や共生というテーマを少しでも追うと、いつでも「人権」「宗教」「アイデンティティ」といった、人間が作り出した様々な信念にぶち当たって、それらの信念の壁の向こう側に行けないもどかしさを覚えてしまう。

それらの信念は有史以来あるものだけれども、現代を知るためにもまずは、近代という枠組みの中でそれらの信念がどう理解され、変化し、崩されたのか、知りたいなと思う。

キリスト教やギリシャ哲学、ローマ法学といった、近代以前の日本社会とは全く違う土台の上に、西洋の近代はある。そして日本の近代の成立には、西洋近代を輸入が欠かせなかったので、西洋の近代にもう少し近づきたいなと、思うのだ。留学の最初の学期を繋いだのはその近代フェチだった。

 

授業でディスカッションするとき、キリスト教徒の学生やTAさんが神がいないという感覚をつかむのに苦戦するのを見るたびに、UKに留学してよかったな、と思う。かくいう私も、(おそらく)一生神がいるという感覚をつかめないので、西洋へは一定以上の距離近づけないだろうなと思う。

 

現在ハンガリーは移民の徹底的な排除を訴える首相のもと、右傾化している、民主主義の危機を迎えている、とヘッドラインは伝える。2019年の天使ガブリエルが守るのは、ハンガリー人の両親から生まれ、マジャール人的な身体的な特徴を有し、キリスト教を信奉する人間だけなのだろうか。少数派の宗教と少数派の身体的特徴を持ったユダヤ人が、他のどの国からよりもたくさん、ハンガリーからアウシュビッツに送られたことはどのように記憶されているのだろうか。現在の政治はどのように記憶されうのだろうか。

 

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モニュメントのアップ写真。右下には英語、ヘブライ語、ドイツ語、ロシア語の表記がある。

 

その共有された記憶は、どのように「ハンガリー人」を「他者」から分けるのだろう。

「人権」や「国家」という信念はその中でどのように記録され、使われるのだろう。

ホロコーストの反省から立ち上がった「現代」は、「近代」と違うのだろうか。

 

自分が死んで次の世代が解釈してくれるまで、

私にとっての現代はいつまでも後期近代として体感される。(完)

 

(ここまで読んでくれて本当に本当にありがとうございます!)